「PLAID Design Advent Calendar 2024」の1日目の記事です。
僕はこれまでフロントエンドの開発者として働いてきた傍ら、自身をウェブデザイナーとしても自認して、自分なりのやり方でデザインに携わってきました。この記事は、特定の組織での経験をテーマにしたものではなく、そうした自分の成り立ちを省みるためのものです。
また記事は、書籍『ビジュアル・シンカーの脳』の内容をもとにした自分の感想や思索についてまとめたものです。特定の属性の人物やその主義主張に優劣をつける意図はありません。
デザイナーが作ったデザインを見たとき、「見づらい」や「わかりにくい」といった印象を抱くことが僕にはそれなりにある。おおまかに言って、そう感じるのには大きく2通りの原因がある。
一つは、視覚的にボヤッとして見づらいとき。主要な文字のサイズが小さすぎたり色が薄すぎたり、周辺空間が騒々しくて目的の情報をすんなり読み取れなかったり、何かしらの機能を示す装飾がさりげなすぎて気づけないようなとき。あるいは、情報のヒエラルキーやグループ関係を読み取れないとき。
もう一つは、UI表現として自分が認識しているパターンを裏切られたとき。「こういうUI要素はこのようなコンテキストの中でこのような挙動をするだろう」という自分の脳内にあるモデルを逸脱するような設計が想定されているとき。
そうした自分の見解について話すと、まれに「いや、わかるでしょ」とでも言わんばかりの反応が返ってくることがある。つまりデザイナー本人からしてみれば、十分見やすくわかりやすく作っているつもりなので、それに難癖をつけられる道理が理解できないというわけだ。僕としては本当に「わからない」のだが、さも何かの意地悪で極論を言っているかのように捉えられるのである。
僕はこれまで、それは自分の作ったものを見慣れすぎているという作り手のバイアスが原因の問題だと考えていた。もっとも、それも問題の一因ではあるだろう。しかし、僕が明らかに見づらくわかりづらいと思うものに対して、初見の人が真逆の感想を述べる光景も数多く目にしてきた。
この感覚の違いの正体はいったい何なのか。誰かが嘘をついているのか。自分の心を正しく解釈できていないだけなのか。それとも彼らは、自分とはまったく違うレンズで世界を見ているのか。
最近、『ビジュアル・シンカーの脳』という本を読んだ。そこには、まさに先のような問いに対する答えがあった。
なお以降の項での記述は、最後を除いてすべて本書の要約と抜粋から構成されていることを断っておく。僕自身の見解ではなく、本書の内容をもとにして編集されたものである。
いわく、ある種の人々は、言葉の代わりに「絵」を使って思考する。一般に、言語は思考の土台であると考えられている。しかし一部の人々は、情報処理のプロセスとして脳の視覚の回路を使って思考する。つまり、通常の言語思考とは異なる考え方をするのである。本書ではそれを視覚思考者(ビジュアル・シンカー)と呼ぶ。
視覚思考者は、頭の中で言語を経由せずに直接イメージを思い浮かべる。Googleで画像検索をするように、視覚的なイメージを高速で連想する。地図や絵画、迷路が好きで、道には迷わない。一方で、子供のころに言葉を話し始めるのが遅く、学校での教え方についていくには苦労する傾向がある。視覚化できない抽象概念を理解することも苦手である。
その対である言語思考者は、物事を順序立てて理解するので、学校での体系化された勉強は得意な傾向にある。一般的な概念を理解するのが得意で、時間感覚に優れているが、方向感覚は良いとは言えない。書類やファイルはきちんと整理整頓する性分である。何かしらの問題に向き合う際には、講じる対策を明確にして、解決や決定にたどり着く。声に出さずに自分の心に語りかける。口が達者で、言葉を巧みに使いこなす能力が必要な職業に就くことが多い。
この二者の違いを端的に理解できる一つの研究がある。ある心理学者が、書類をファイルに閉じてキャビネットにきちんと並べる人と、書類の山に囲まれている人との比較を行った。すると、書類をファイルしない人にきちんと整理させたら、何も見つけられなくなってしまったと言う。なぜか。彼らは、整理しなくても、散らかった状態のままでそれらを組織化し、頭の中で見ているからだ。無理に整理すると、構築したイメージが損なわれてしまう。これが視覚思考である。
本書の著者テンプル・グランディンは動物学博士だ。彼女は自閉スペクトラム症であるとともに、視覚思考者である。本書は、その視覚思考者の考え方というものが存在することを解明して世に知らしめるものなのだ。
人が視覚思考タイプかどうかを判定するテストはいくつかある。著者が考案した「イケア・テスト」では、家具を買ってきて組み立てると仮定する。そのとき自分なら、説明書の文を読むかイラストを見るかを想像する。視覚思考者の著者にとっては、言葉で書かれた説明文を読んでも連続した手順についていけずちんぷんかんぷんだが、イラストを見れば一目瞭然だと言う。イケアでは説明書はすべてイラストで示されているが、これは創業者がディスレクシアであり言葉より絵を優先するタイプだからだそうだ。
また別の「視覚空間型思考判定テスト」では、18の質問に「はい」か「いいえ」で答える。「はい」が10個以上なら視覚思考タイプの可能性がかなり高いと言う。著述家や編集者、弁護士はたいてい「はい」が10よりずっと少なく、想像力が極めて高い人や数学が好きな人には「はい」が多い。たいていの人はその間のどこかに当てはまり、2種類の思考の混合タイプになるだろう。
- 考えるときには、言葉ではなく、おもに絵を使う。
- 物事がわかるが、その方法や理由は説明できない。
- ふつうと違う方法で問題を解決する。
- 物事をありありと想像する。
- 目で見たことはおぼえているけれど、耳で聞いたことは忘れる。
- 単語をつづるのが苦手。
- 物体をいろいろな視点から思い浮かべることができる。
- 整理整頓が苦手。
- 時間の経過がわからなくなることがよくある。
- 行く先は言葉で説明してもらうより、地図を見るほうがわかる。
- 一度しか行ったことのない場所でも道順をおぼえている。
- 字を書くのが遅く、字はほかの人に読みづらい。
- ほかの人の気持ちがわかる。
- 音楽か美術か機械が得意。
- 周囲が思っている以上に物知り。
- 人前で話すのは苦手。
- 歳を重ねるごとに賢くなっていると思う。
- コンピューターに熱中する。
視覚思考者の割合については、まだ十分なデータがない。小学生を対象に行った調査によれば、ほぼ3分の1が明確な視覚思考タイプで、およそ4分の1が明確な言語思考タイプ、残りの半分弱が混合タイプだった。
視覚思考者には、2種類のタイプがいる。物体視覚思考者と空間視覚思考者だ。それぞれ次のような特徴がある。
- 物体視覚思考者: 写真のように正確なイメージで周りの世界を見る
- グラフィックデザイナーや画家、目端の効く商人、建築家、発明家、機械工学士、設計士などに多い
- 空間視覚思考者: パターンと抽象的な概念で周りの世界を見ている
- 音楽や数学が得意
- 統計学者、科学者、電気技師、物理学者、コンピュータープログラマーなどに多い
プログラマーに空間視覚思考者が多いのは、コードにパターンが見えるからだそう。この二者の思考を区別すれば、「物体視覚思考者はコンピューターを組み立て、空間視覚思考者はプログラムを作成する」という風になる。
はたまた、極端な言語思考者の中には、写真や略図を見てもどう解釈すればいいのかがさっぱりわからない人がいる。物体視覚思考者や空間視覚思考者にとっては自明のテストをしたとき、言語思考者はまるででたらめのような回答をしたと言う。ほかにも、次のような事例が紹介されている。
ある研究では、視覚思考者と言語思考者に説明文と写真を見せて、新しいことを学ぶテストをした。視線を追跡すると、当然ながら、視覚思考者は写真に、言語思考者は説明文に注目した。言語思考者が写真を見たときには、写真の縁など新しい情報を得るのに何の役にも立たないところを見ることが多かった。
また別の研究では、美術、理科、語学のどれか一つが得意な学生をグループにして、それぞれに未知の惑星の絵を描かせた。研究の目的を知らされていない専門家が作品を評価したところ、結果は次のようになった。
- 美術の得意な生徒(物体視覚思考タイプ)
- 色鮮やかでファンタスティックな3つの惑星を描いた
- 理科の得意な生徒(空間視覚思考タイプ)
- 自分たちの描く惑星に明確なコンセプトを持っていた
- 惑星は球体で色がなく、どちらかというとよくあるタイプだった
- 語学の得意な生徒(言語思考タイプ)
- 描いた惑星は想像力に欠け、点描の抽象画のように見えた
そして研究をさらに進めて、生徒たちが惑星を描くときにどのようにアイデアを展開したかを調べた。
美術と理科の生徒はどちらも最初に「中心になる独創的なアイデア」を展開した。美術の生徒は、惑星の外観を話し合い、理科の生徒は、惑星の重力や化学的性質、生物の種類など構成要素を話し合った。語学の生徒は描いた惑星に名前をつけたが、制作にあたって練った構想を説明できなかった。
この3種類の考え方は、本書にある3つの思考スタイル(物体視覚思考、空間視覚思考、言語思考)と一致する。
我々の業界におけるデザイナーとエンジニアの関係を理解するうえで、本書の「建築家と建築エンジニア」の話は興味深かった。
通常、建築家は注目され、大胆な設計だとか、美しく調和が取れているなどと称賛される。設計に命を吹き込み、その結果できあがった建物を安全に使えるようにするのは、建築エンジニアの領分だ。私の経験と観察からすると、建築家はたいてい物体視覚思考タイプで、建物の姿を頭の中で見るが、建築エンジニアはたいてい空間視覚思考タイプで、数学の得意な脳で電気系統を操作し、建物にかかる風圧や雪の重さを計算する。
近代高層ビルの生みの親ウィリアム・ル・バロン・ジェニーは、建築家と建築エンジニアの二刀流だった。1884年に完成させたホーム・インシュアランス・ビルは、当時の米国内でもっとも高く、内部フレームにレンガと石ではなく鉄と鉄鋼が初めて使われた。「12世紀にゴシック様式が大聖堂に取り入られれて以来のもっとも大きな革新だ」と語られている。
しかし物体視覚思考者の著者にとっては、このビルはいかにも建築エンジニアが設計したように見えると言う。
機能一点張りの背の高い長方形で、ちっとも美しくない。察するに、ジェニーは建築家ではあったが、おもに数学に強い空間視覚思考タイプで、最大の関心は、崩れ落ちない鋼鉄製のフレームで建築することだったのだろう。
この建築家と建築エンジニアの考え方の相違は、学校での建築とエンジニアリングの教え方の違いに象徴されている。
教室という物理的な空間を見ても、エンジニアリングの教室では、無味乾燥な部屋に机が整然と並べられている。建築の教室では、学生が大きな作業台のあちこちでそれぞれに作業し、壁には絵画や下絵が貼られ、教室というより画家のアトリエに見える。エンジニアリングのカリキュラムは「がんじがらめ」で、一度に一つずつ技術的なスキルの問題に取り組む。一方、建築のカリキュラムは制約が少なく、創造性を重視する。
工業デザインの分野でも似たような話がある。
工業デザインの企画では、美術と作図に重点が置かれ、数学はそれほど重視されない。工業デザイナーは、製品が作動する仕組みや外観の構想を練る。一方、機械エンジニアは、負荷テストや物理的な力という数字に関わる面に目を向けて製品の機能を計算する。工業デザイナーは設計し、機械エンジニアはそれを機能させる。
機械エンジニアと工業デザイナーが周りの世界をどのように見ているのかを調査した研究がある。被験者はいろいろな種類の椅子の写真を見て、機能性、創造性、美しさを5段階で評価する。
調査の結果、機械エンジニアにとっては、外観と性能は密接に関係しているようだった。それぞれの椅子の機能性を美しさと一緒くたに評価する傾向があった。ところが工業デザイナーは、美しさと機能性を分けて考えた。つまり、エンジニアにとって形と機能を切り離すことは難しいが、デザイナーは美しさと機能性を上手に区別した。
この研究から、美しさと機能性は見る人によって大きく評価が異なることが明らかになった。さらに言えば、機械エンジニアは空間視覚思考タイプで、工業デザイナーは物体視覚思考タイプだと推測できる。
本書からのこれらの情報を踏まえたとき、僕の経験の中には思い当たることがいくつもある。一つひとつ紐解いていこう。
まず、僕は言語思考者としての傾向が強い。日頃ずっと言葉が頭の中を渦巻いていて、無意識に心でしゃべっている。学生時代の得意教科は国語と英語だった。プログラマーとしてコードにパターンが見えるという感覚はわかるので、空間視覚思考者でもあるのかもしれないが、言語思考ほど強い傾向は見られない。
視覚的な情報を読み取ることが苦手だという心当たりはある。子供のころから母には「物をよく見ていないでぼうっとしている」と言われてきた。酷い方向音痴でもあり、道を覚えるのはめっぽう苦手だ。地図を見ても位置関係を理解するまでしばらくかかる。ついでに言えば、人が良いと言う絵や写真を見てもいまいちピンとこない。
両親の思考タイプはどうだったか。母はたぶん言語思考と物体視覚思考の混合タイプで、よくしゃべるが言葉に厳しく、僕がおかしな日本語を使ったり要領を得ない話をしたりするたびに目ざとく非難した。絵を描くのが得意で製図の仕事をしていた。父は空間視覚思考者で、経理の仕事をしていた。家ではいつもパソコンの前にいて、父とはまともな会話をした記憶がない。母が僕に施した美術的教育は実を結ばなかったが、シビアな言語感覚は受け継がれた。
これまで僕が仕事をしてきたデザイナーの中に物体視覚思考者が多かったことは想像に難くない。その物体視覚思考者が作り出すものが、言語思考者にとって易しくないものであることは、ごく自然な帰結に思える。要するに、受け取りやすい情報の形式が大きく違うのだろう。その感覚に相手との齟齬があるという意識がないから、話がすれ違う。
では、UI表現のパターンについて、僕が人一倍厳密に考えてしまうのはなぜだろう。これは空間視覚思考者としての傾向が働いているせいだと解釈できないか。普段から物事を抽象的に捉える癖があり、目に見えるものもパターンで認識しようとする強い意識がある。だからこそ、細微な違いにつまづいて意味を取り違えてしまうことも多い。それがある意味、僕の融通の効かなさを形成している。
そして僕の感覚とは裏腹に、ある種のデザイナーは、デザインの問題を指摘するときによく「文字文字しい」という表現を用いる。文字の量が多すぎたりその存在感が強すぎたりするという意味だ。だから、そのテキスト部分を無くしたり減らしたり隠したりしたいという話につながる。これは程度問題なのでどちらが正しいと言い切ることはできないが、そのバランス感覚の違いに言語思考者と視覚思考者の隔たりが表れていると思う。
僕が業界を志したころ、ウェブデザインの心得として強く影響を受けたのが「Words」である(もしくは、「Motherfucking Website」)。人によってはまるで理解されないだろう。海外のギャラリーサイトで紹介されるようなきらびやかなウェブページにも憧れはあったが、結局そこにのめり込むことはなく、やがて言葉やタイポグラフィに惹かれるようになっていった。「Web Design is 95% Typography」を胸に刻み、マテリアル・オネスティ(参考: 「Material Honesty on the Web」)を信条として、テキストをデザインのための拠り所として理解し、実践してきた。
自分の過去を否定するつもりはない。しかし、それらの選択が一つの「逃げ」だったこともまた事実である。視覚的な美しさを追求することが僕にはできないと悟ったとき、デザインの答えを自分の中でなく客観性の中に求めた。さまざまな素材や理論と一体化した合理性の中に美しさを見い出すようになっていった。そうだったと思う。本当のところ、何が卵で何が鶏だったかはもはやわからない。ほかにもいろいろ書いたけど消した。
視覚思考者であるかどうかで人を理解することはできないが、少なくとも、他者にとっての世界の見え方を想像するための助けにはできる。そして、彼が見たくてやまない世界を、僕は見ることができているのかもしれないと想い浮かべることもできる。それでよしとしよう。
「PLAID Design Advent Calendar 2024」の2日目は、tomaさんによる「ユーザーインタビューのときに考えている5つのこと」です。