こと非同期コミュニケーションにおいては少しくどいと思うくらいに説明するのでちょうどいい

Slackのようなインターフェースを見ると、さも人と人が対面してしゃべるような言葉のやり取りがそのままできて、コミュニケーションとして成り立つと思ってしまうことがある。非常に限定的な状況においては可能かもしれないが、たいていはそうならない。

非同期コミュニケーションにおいては、人がひとまとまりの言葉を発する1ターンに重みがある。

対面してしゃべるときには、相手がしゃべっている途中でなにか引っかかりを感じれば、そこで割り込みをして質問したりすることが簡単にできる。

「いま言ってるAって、もしかしてBのこと?」
「あ、それでした」

この場合の割り込みはたいしたコストにならない。しかし、たとえばZoomとかになってくると難しくなる。通信による遅延があるからだ。しゃべってる途中で割り込もうとすると、間が悪くなる。

「さっき言ってたAって、もしかしてBのこと?」
「えっ、ごめんなんのこと?」
「あのさっきの」
「ああ、そんなこと言ってた?」

みたいになる。つまり、指摘や質問のコストが上がってしまう。これが一度切りだとすれば気にならないが、1時間とか話してるとそういう場面は何度もある。したがって、ちょっとしたことでいちいち流れを止めてしまうと申し訳ないとか、恥ずかしいという気持ちになるので、

「あの人が言ってるこれって、たぶんあれの言い間違えな気がするけど、わかってるよな」
「ちょっと違和感があるけど、これくらいのことならスルーしておいて大丈夫か」

という判断になる。あるいは、しゃべってる人が一息ついたタイミングでまとめて確認しようと思ってホールドしておく。すると、その人が間髪入れずにしばらくしゃべり続けるので、前提条件の確認がすごい後手に回ってしまったり、みたいなこともある。

この話がわかってないのって自分だけだろうかと思うときって、実はほかの人も同じようにわかってない場面も多くて、そういうときはズレをこまめに確認しておかないと、的外れな発言が頻発して時間の無駄になる。

非同期性によって、この「結局余計めんどくさい問題」が発生しやすくなる。解決策としては、できるだけいい回線を使うとか、ゆっくり目に間を置いてしゃべるとか、その辺だろうか。

テキストでのやり取りも同じような問題を孕んでいる。非同期性が高いのでじっくりやり取りできると思いきや、結局みんな時間はないので急いでしまう。そして、1ターンの重みはさらに増す。ひとつ反応をもらうのに半日かかるかもしれないし、もしお互いがそうであれば、言動はますます慎重にならざるを得ない。

そしてテキストである以上、対面してしゃべることとは性質が違うが、それにあまり配慮せずにいるとまた不健全性な方向に進んでしまう。

しゃべるときは相手と言葉だけでコミュニケーションしているわけではない。声の感じとか、間の置き方とか、表情とか、そういうところでつねに言葉以外のやり取りをして、相手の反応も伺いつつ話を進めている。

しかししゃべりの場と同じノリのままで、しゃべりの場をイメージして出てきた言葉だけを切り取ってテキスト化してしまうと、なにを言っているのかわからない人になってしまう。相手と共有されていない、自分のイメージの中だけで発生したしゃべりの断片を、相手に送りつけることになる。

すると相手としては、テキストからは読み取れない情報を補完するために、発信者はどういう思考の流れでこれを書いたのかというところまでさかのぼり、意図を探り当ててやらないといけない。そうして探り当てた意図が本当に正確なものであるかに不安があれば、「あなたが言いたいのってこういうこと?」と確認する必要がある。しかしその察されている状況までもが理解できない人にとっては、「いや、だからそう言ってるでしょ。早く次の話をしてよ」という反応になってしまう。

「人の立場になって考えましょう」というのは、簡単な精神論で終わる話ではなく、訓練を要する技術的な問題だと思う。人が自分の話について来れてないと認識できなかったり、そういう状況を軽視してしまう人は、話を伝えるということの実感に欠けている。

伝えるためには、その相手の知識レベルや考え方、立場の違いなどについてよく理解していないと、どこに向かって説明すればいいのかがわからなくなるはずだ。そして、相手を理解しようと努めてきた経験であったり、その経験から得られる想像力によって、相手への理解は育まれるものだ。

そしてこの違いは、1ターンの重みによって如実に現れることになる。指摘や質問をするコストが増大する状況であるからこそ、相手に対する配慮のなさから生まれるコストはただならないものになってしまう。だから発信側は相手にうまく伝えるために、よく考えるべきだ。

非常に端的で簡単なテキストでうまく伝えられるならば、それ以上のことはない。しかしどうしても、言葉に解釈の余地が生まれてしまうことは回避できないし、相手を完全に理解することもできない。だから大事をとって、できるだけ周到な形で伝えるようにしたいと僕は考えている。

相手がつまづいてしまいそうな要素は排除する。自分があたりをつけたところと相手が少し離れたところにいても、なんとか機能できるように、多少の読み違えをされてしまっても、続きを読んでいるうちに相手の理解が軌道修正されるように、少しくらいのズレは念頭に置いておく。受け取る側が察するよりも、発信側のほうが配慮する余地があるのだから、相手より先回りして書いておくくらいのことはやるべきだ。

しかしそういう意識で書いていると、自分の伝え方がなんだかくどくどしく見えてきて、うっとうしくて恥ずかしかったりすることもある。でも、相手にとってはだいたいそれくらいでちょうどいいものだ。相手は自分とは違う人間なので。それでうまくいく経験がほとんどだし、逆に、頓珍漢な方向にハッスルするような失敗をしてしまうこともあるけど、伝えるための努力をしていない人よりは全然マシだと思う。