とんかつ屋。隣には、神経質そうな思春期の息子と、大雑把そうな年配の父親。
「ご飯のお代わりのためだけに呼ぶの悪くない?」と息子が言うと、「それも織り込み済みだからいいんだよ」と父親が答える。
わかるよ。それでも、個人としては微妙に嫌だろうと思うんだよ。そう考えちゃうし、考えたいよね。2人が呼んだ店員を僕は帰り際に呼び止めて、ご飯のお代わりを頼んだ。僕は昔から父親と全然しゃべらなかったので、父親と息子が淀みなく会話している光景を見ると非現実的に感じて、物珍しげに見てしまった。
「そんなに食べたら、さっき散歩した分が無駄になっちゃうよ」。一理ある。
帰りにセブンイレブンの前を通った。今月の27日から始まる、トムとジェリーのHappyくじというのがここで引けると同僚に聞いた。とくに「チーズを丸飲みしたジェリー」のフォルムがすごくいいので欲しい。
割とよくこういうのを見つけて欲しくなることがある。ぬいぐるみとかも欲しくなる。しかしそれらが増えてくると部屋が煩雑になるので、強い気持ちを持って、できるだけ買わないようにしている。
例外的に、プリントTシャツだけは50枚くらい持っている。なんとなく自分ルールで、これだけはOKということにしているのだ。ただ最近、衣装ケースに入り切らなくなってきたので、さすがに減らそうかなと思い始めた。本棚から溢れる本類はサマリーポケットに預けたりもしているが、Tシャツまでそれをやると運用が複雑になりすぎてしまう。
けっきょく捨てるようなら最初から買わないほうがいい。捨てるのは、どうもやり切れない気持ちになる。これがもし、Tシャツを何回も繰り返し着続けて生地がダメになったから捨てるというのなら、うまい付き合いができたと思って納得できるが、はたまたぬいぐるみだったり、「チーズを丸飲みしたジェリー」だったりした場合の、適切な捨てどきはいつなのだろう。
当初の目的を果たさなくなるという意味では、飽きたときや好きじゃなくなったときがその時なんだろうけど、これはモノの側の劣化とはたいてい関係がなく、持ち主の気持ちの変化によるところでしかないので、モノの側の問題——つまりやむを得ないものではない。持ち主を変えればいい。ただ、現実的にはうまくいかない。なんでもかんでもメルカリで売れるわけではないし。いやこれは半分嘘で、僕はまだメルカリを使ったことがない。
しかし譲渡の選択肢がないとして、モノに対する持ち主の気持ちの消失だけをわけにゴミになってしまうのがどうしても解せない。そのモヤモヤに蓋をして、今までたくさんのモノをゴミにしてきたわけなのだけど。その行為を割り切って考えてもいいのだろうか。ペットを飼うときには、生き物だからモノのように扱うなと言うが、同じような意味で、モノもただのモノのように扱うなとでも言いたくなるような感覚がある。そういったモノを捨てることには、うっすらとだが、生き物を殺処分するような罪の意識があるかもしれない。